まちの価値・くらしの価値を高める重要なインフラとして、「水」「光」「緑」に代表されるグリーンインフラが注目されています。道路、公園・緑地・広場、水辺等のパブリックスペースから、オフィス・店舗スペース、自宅のリビングや庭・ベランダ等のパーソナルな空間に至るまで、従来の「効率性」「耐久性」「利便性」等の指標に加えて、ウェルビーイングの視点から「居心地のよさ」「幸福感」といった、ひとりひとりが感じている認識や感覚を、いかに評価し高めていくかが、今、問われています。
2025年に創業70周年を迎える当社は、ひらかたパーク内に「京阪ひらかた園芸企画」として誕生しました。以来、地域の皆さま、取引先の皆さまに支えていただき、現在では『一級造園施工管理技士』をはじめ延べ100名近い公的資格保有者が在籍し、「樹木医」「薔薇(ローズ)ソムリエ」などユニークな専門家を輩出する、従業員150名超の会社に成長しました。
設立当初よりレンタルグリーン、フラワーショップやバラ苗の全国出荷をはじめ、造園部門では淀川河川公園の維持管理、土木工事を含む高速道路や都市公園の整備など、数多くの公共事業から、個人邸宅の葉刈り・外構リフォームに至るまで、まさにグリーンインフラに関連する事業を幅広く展開しています。
近年は、行政の指定管理業務(PMO事業)にも積極的に参画し、枚方市営5公園をはじめ、「弥生の風景の再現」を試みる奈良県田原本町の「唐古・鍵遺跡史跡公園(約10万㎡)」や万博記念公園(吹田市・約230ha)、草津川跡地公園(草津市・約7万㎡)、山田池公園、服部緑地、浜寺公園など府立公園の指定管理者に選定されている他、宇治・平等院境内の藤棚や松の木の樹勢回復など、歴史建築物・施設の整備にも事業者として加わっています。
社会・環境・経済が複合した複雑な課題を解決するアプローチとして、オープンスペースを緑地や農地として整備するだけでなく、地域コミュニティの核となる、利用者にとって居心地の良い空間を創出し、豊かで潤いのある、持続可能な社会を実現しようという動きが加速しています。当社は、長年に亘って様々なフィールドで培われた経験と技術を生かして、まちの価値・くらしの価値を高めるライフスタイルカンパニーとして、「心地よい空間」「魅力的なまちなみ」の創出と、グリーンを軸とした「人のこころとまちの潤いとなるサービス」の提供・開発・協業に取り組んでまいります。
これまでの地域・社会の在り方を大きく変える可能性に満ちたグリーンインフラを通じ、未来に向かって、豊かで潤いのある持続可能な社会の実現に貢献し、地域・社会と共にこれからも成長し続けます。
まちの価値・くらしの価値を高める重要なインフラとして、「水」「光」「緑」に代表されるグリーンインフラが注目されています。道路、公園・緑地・広場、水辺等のパブリックスペースから、オフィス・店舗スペース、自宅のリビングや庭・ベランダ等のパーソナルな空間に至るまで、従来の「効率性」「耐久性」「利便性」等の指標に加えて、ウェルビーイングの視点から「居心地のよさ」「幸福感」といった、ひとりひとりが感じている認識や感覚を、いかに評価し高めていくかが、今、問われています。
2025年に創業70周年を迎える当社は、ひらかたパーク内に「京阪ひらかた園芸企画」として誕生しました。以来、地域の皆さま、取引先の皆さまに支えていただき、現在では『一級造園施工管理技士』をはじめ延べ100名近い公的資格保有者が在籍し、「樹木医」「薔薇(ローズ)ソムリエ」などユニークな専門家を輩出する、従業員150名超の会社に成長しました。
設立当初よりレンタルグリーン、フラワーショップやバラ苗の全国出荷をはじめ、造園部門では淀川河川公園の維持管理、土木工事を含む高速道路や都市公園の整備など、数多くの公共事業から、個人邸宅の葉刈り・外構リフォームに至るまで、まさにグリーンインフラに関連する事業を幅広く展開しています。
近年は、行政の指定管理業務(PMO事業)にも積極的に参画し、枚方市営5公園をはじめ、「弥生の風景の再現」を試みる奈良県田原本町の「唐古・鍵遺跡史跡公園(約10万㎡)」や万博記念公園(吹田市・約230ha)、草津川跡地公園(草津市・約7万㎡)、山田池公園、服部緑地、浜寺公園など府立公園の指定管理者に選定されている他、宇治・平等院境内の藤棚や松の木の樹勢回復など、歴史建築物・施設の整備にも事業者として加わっています。
社会・環境・経済が複合した複雑な課題を解決するアプローチとして、オープンスペースを緑地や農地として整備するだけでなく、地域コミュニティの核となる、利用者にとって居心地の良い空間を創出し、豊かで潤いのある、持続可能な社会を実現しようという動きが加速しています。当社は、長年に亘って様々なフィールドで培われた経験と技術を生かして、まちの価値・くらしの価値を高めるライフスタイルカンパニーとして、「心地よい空間」「魅力的なまちなみ」の創出と、グリーンを軸とした「人のこころとまちの潤いとなるサービス」の提供・開発・協業に取り組んでまいります。
これまでの地域・社会の在り方を大きく変える可能性に満ちたグリーンインフラを通じ、未来に向かって、豊かで潤いのある持続可能な社会の実現に貢献し、地域・社会と共にこれからも成長し続けます。
「枚方と言えば菊人形」そう全国の方々から言われるようになった歴史に
京阪園芸がどのような関わりがあるのか?
川井 ゆう氏「受け継がれる技、日本の園芸力」
(ガーデナーズ通信Vol.12 2017年秋冬号)からの転載記事でご紹介致します。
菊人形に用いられる菊は、花屋には売っていない。「人形菊」といい、特別に栽培されている。小菊から品種改良されたものである。
少し遠回りをするが、話を続ける。菊人形は、江戸時代からつくられている。明治時代になって、入場料をとってみせる「興行」になった。
入場料をとるからには、完成度を高くしなければ、お客さまは来てくれない。職人技を結集させた。園芸の側面からは、人形菊の改良が必要だった。それを名古屋の「菊人形屋」が最初に工夫した。その人形菊を用いて、明治43年(1910)に香里遊園で第1回菊人形展が開かれ、人形菊栽培の技術が伝授された。会場は後に枚方に移るが、菊人形展は京阪電車の創業時から共にあった。
百年以上が経過した現在、京阪園芸では現在も菊人形の栽培技術を継承している。京阪園芸(京阪ひらかた園芸企画)が会社として設立されたのは昭和30年(1955)。すでに60年を超える歴史がある。しかしそれは造園「業」の始まりであって、それ以前に何もなかったわけではない。設立の40年以上も前から、京阪の「園芸」は始まっていた。
ところで、枚方は難読地名なのだそうだ。
でも、地元以外の人に「ひらかた」と読める人がけっこう多いと聞く。それはなぜか。
「枚方といえば菊人形」と、全国に知れ渡っていたからである。
起源は江戸(東京)だし、人形菊の嚆矢は名古屋。それに明治時代から昭和時代まで、日本全国のおよそ400ヶ所で菊人形展が催されている。にもかかわらず、枚方の菊人形展は日本中で有名だった。
昭和30年まだ庶民のものではなかったバラ。
バラのひらかたはどのようにして誕生していったのか?
川井 ゆう氏「受け継がれる技、日本の園芸力」
(ガーデナーズ通信Vol.13 2018年春夏号)からの転載記事でご紹介致します。
かつて花人形というものがあった。秋の菊人形にあやかって春の花人形である。つつじ、カーネーション、チューリップ、スイートピーなど、様々な花が人形に着せられた。
京阪の培養師が、菊人形専用の人形菊の栽培に並々ならぬ努力をしたことを前号で記した。だが、苦心したのは人形菊ばかりではない。
春も秋と同じく、多くの花人形が長い期間展示された。材料となる花には人形菊のように根がついており水苔で寝巻される。でも保管している間に満開になってはならない。花を着付けている時もおなじ。花人形一体分の花だけを完成したタイミングから咲き始めさせるという「ミラクル」を、培養士たちは常に要求されてきた。
ちなみに花人形の着付けも菊師が行う。菊人形は起源がいちばん古く、多くの場所で興行され歴史も長いため、たまたま菊師と呼ばれているだけで、どんな花でも着付けることができるのだ。
さて。このミラクルな技術、並大抵ではない。日々の研究姿勢が不可欠である。ときにはひらかた公園内の花壇の花の栽培にヒントを得ただろう。また逆に人形の花の栽培が花壇の花の栽培に役立つこともあったにちがいない。
花人形の花は、大正時代には栽培されていたらしい。
京阪園芸(京阪ひらかた園芸企画)が会社として設立された昭和30年(1955)。実はこの年は単なる会社設立の年ではない。「第1回、ローズカーニバル」が行われたのである。戦後まだ10年、バラはまだ庶民のものではなかった。当時の記事に、「今年から秋の菊に対し春はバラを咲かせて『バラのひらかた』と名乗る」とある。それまでの研究の成果が花開いた。
しかし同じ年の秋、早くも前言をよい意味で引っ込めなければならなくなる。バラ園を秋にも公開したからである。春も秋もバラ。それは積み重ねてきた研究のおかげ。現在のローズガーデンのあたりは、「バラ研究園」と呼ばれていた。当時の培養師の気概が頼もしい。お客さまは、研究の成果を見に行ったのだ。
そしてご休息されるお客さまのために、バラ園が一望できる食堂もできた。その名はバラ食堂。現在も同じ場所に建つレストランにローズの名が残されているのはうれしい。
菊人形展に欠かせない存在である菊培養師。
京阪園芸に受け継がれる栽培技術の進歩はどのような歴史を辿ってきたのか?
川井 ゆう氏「受け継がれる技、日本の園芸力」
(ガーデナーズ通信Vol.14 2018年秋冬号)からの転載記事でご紹介致します。
菊人形は、江戸時代の終わり頃からである。そして現在も存在する。およそ170年。とても長い。日本において菊人形見物は、あって当たり前の娯楽だった。
しかし考えてみてほしい。菊人形の衣装は生きた菊である。通常ではありえないシロモノである。菊培養師や菊師はそのありえないことを可能にしてきた。特に菊培養師は、2、3ヵ月という長期間の興行に備えなければならない。またかつては100体にも及ぶ大規模な菊人形展のために、大量の人形菊が必要だった。
このような栽培を毎年求められているとき、別の場所で大きな規模の菊人形展を開催してほしいと言われたら、しかも「急に」言われたらどうだろう。有名なひらかたパークには時々、菊人形製作の依頼が舞い込んだ。
菊に限らず植物は、言われてすぐに大量に用意できるものではない。その上、菊培養師はその年の菊人形展が終わるとすぐに、翌年の人形菊の準備にとりかかる。菊培養師は一年中忙しいのである。それに人形菊を「別天地」で育てることも容易ではない。土が変わり水も変わる。日当たりも変われば、気候も変わる。
残念ながら、「急な」ご依頼はお断りするしかない。
しかし京阪の菊人形の歴史には、菊培養師にとって思いもかけない試練があった。
1度目は大正元年(1912)。香里遊園で明治43年(1910)に始まった菊人形展だったが、香里の地を住宅地にするため、場所を枚方に移すことになった。
2度目は大正8年(1919)。興行主などとの関係で宇治に移された。
3度目は大正12年(1923)。宇治の菊人形館が火災に遭った。再び枚方へ。
4度目は昭和21年(1946)。戦争で枚方遊園は農地になっていた。菊人形展の一式は千里山遊園(大阪府吹田市)に避難させていた。千里山遊園は、大正11年(1922)に創立した「新京阪」が所有していたのである。戦後、ひらかた菊人形は千里山で復活した。
5度目は、昭和24年(1949)。枚方へ戻った。
「あって当たり前」であるために、菊培養師はそのたび、人形菊がへそを曲げてしまわぬように心を砕いてきた。
京阪園芸には、過去の試練に打ち勝った、頼もしい経験と栽培技術の積み重ねがある。
海外でも知れ渡っている日本の園芸。
1999年にロングウッド・ガーデンで開催された菊人形ショーは京阪園芸の職人技が成せる技であった。
川井 ゆう氏「受け継がれる技、日本の園芸力」
(ガーデナーズ通信Vol.15 2019年春夏号)からの転載記事でご紹介致します。
観光で訪れたコペンハーゲンの街で驚いたことがある。花屋の店のガラス窓に漢字で「花」と書かれていたからである[図1]。
日本の園芸は日本で想像する以上に世界に知れ渡っている。盆栽が「Bonsai」、生け花が「Ikebana」として世界で通用することは私も知っていた。
でも、「Kokedama (苔玉)」にはびっくり。「Oshibana(押し花)」というポルトガル語の本にはもっとびっくり。英国の園芸雑誌には「Shogetsu(松月)」という桜、「Hagoromo(羽衣)」という椿、「Ginga(銀河)」というハラン、「Showa-beni(昭和紅)」という藤など、日本語名のまま紹介されている。日本の園芸を熱心に学ぼうとしている。欧米の園芸家は私よりはるかに日本の植物に詳しい。そして気候や風土が異なるのに栽培の努力を惜しまない。
欧米では、古くから日本の植物が紹介されている。19世紀には日本の植物が生きたまま送られることも増え、栽培意欲はどんどん高まっていった[図2]。
1888年には英国の園芸雑誌に、「日本の菊がなくては秋が過ごせない」という記事さえある。日本の植物は今や世界中で花を咲かせている。でも欧米の園芸家でさえ、1861年から存在を知っていながら結果的に手の出せなかったものがある。
菊人形である。
欧米で書かれた菊人形の記録は多い[図3]。欧米に菊人形がないからといって、欧米の人たちが知らないわけではない。もちろん枚方の菊人形も知られている。たとえば1933年には「日本一と称される枚方菊人形ショーは、京阪沿線の大阪と京都の中間にある」と記され、写真と共に詳細に描写されている。1991年には、ロングウッド・ガーデン(米国)の菊花展は菊人形の影響が大きいと記され、枚方の菊人形と菊師の写真を載せて敬意を表している。
欧米の人たちは、日本を訪れて菊人形を見物した。自分たちでつくろうとしたこともあった。だが結局、日本の職人を招いて欧米で菊人形展を開くことに意を注いだ。
菊人形展は一朝一夕にできるものではない。日本の様々な職人技が結集したものだからである。そのうえ人形菊の栽培も至難の業だった。しなやかな枝、枝先に集まる花。花は菊付けや着せ替えに応じてその時々に大量に用意しなければならない。逆に人形菊が栽培できる日本の園芸力を評価すべきなのである。しかも100年にわたって、栽培を続けてきた京阪の菊培養師の功績は大きい。
ロングウッド・ガーデンの熱望は、数々の壁を乗り越え、1999年にようやくかなう。ひらかたパークの職人たちが渡米し、ついにロングウッド・ガーデンで菊人形ショーが開かれた。
ひらかたパークに東洋一のバラ園を築いた「日本におけるバラの神様」岡本勘治郎氏。
京阪園芸と共に日本のバラ業界をけん引した歴史。
北川 陽子氏「受け継がれる技、日本の園芸力」
(ガーデナーズ通信Vol.16 2019年秋冬号)からの転載記事でご紹介致します。
戦後の混乱期を抜けた日本が、高度成長の波に乗り始めていた昭和30年(1955)。当時すでに菊人形で知られていたひらかたパークに、3,000余坪の広さを誇るバラ園がオープンした。京阪電鉄と朝日新聞社が「東洋一の大バラ園」を作るべく、バラ栽培の監督を依頼したのが、当時、日本人でただひとりの英国園芸協会会員であり、バラの育種研究で実績のあった「日本のバラの神様」、岡本勘治郎その人である。
岡本が生まれたのは、明治6年(1899)の京都。祖母が友人からもらってきた一鉢のバラがきっかけで園芸の道を志し、地元を離れて千葉園芸高等専門学校(現・千葉大学園芸学部)に進学。卒業後は単身フランスとイギリスに4年間留学し、園芸とバラを学び続けた。帰国の際、岡本は多くのバラと膨大な関係書籍を日本に持ち込み、昭和2年(1927)、関西で大日本薔薇会を設立。昭和5年(1930)には京都市伏見区の自宅敷地内に1,500坪の「桃山花苑」を開設し、バラの育種と研究を始める。岡本のもとには、バラ研究者をはじめ多くの人が訪れ、京成バラ園の「ミスターローズ」こと鈴木省三氏も書生として住み込んでいたという。
しかし、時代は大戦を迎え、せっかく築いたバラ園もイモ畑への転換を余儀なくされる。岡本も園芸講師として従軍するも、多くのバラを密かに山の手へ移植・避難させ、まさに日本のバラ界の「萌芽」を守り抜いたのだった。
かくして激動の時代をバラとともにくぐり抜けた岡本は、ひらかたパークの大バラ園で水を得た魚のようにバラの仕事を展開していく。同園はパーク来園者向けアミューズメントである一方、岡本が理事を務めていた「朝日バラ協会」の研究園でもあった。ここで九州大学の有隅健一氏ら研究者とともに、彼はかねてより構想していた「日本の気候に合うバラ」の育種に精力的に取り組んでいる。昭和48年(1973)に作出し、今なお日本のバラとして世界各国で愛されている「ブラックティ」をはじめ、数々の傑作がここで誕生している。
ひらかたパークに東洋一のバラ園を築いた「日本におけるバラの神様」岡本勘治郎氏。
京阪園芸と共に日本のバラ業界をけん引した歴史。
北川 陽子氏「受け継がれる技、日本の園芸力」
(ガーデナーズ通信Vol.17 2020年春夏号)からの転載記事でご紹介致します。
昭和30年(1955)に完成した、ひらかたパークの「大バラ園」。その一角に建つクラブハウスに、同バラ園の監修者であり、京阪園芸創業時の取締役でもあった〝バラの神様〞岡本 勘治郎は毎日「出勤」していた。クラブハウスは岡本が理事を務める朝日バラ協会の研究所とゲストハウスを兼ねており、連日のように全国から研究者や著名人らが訪れていたという。
その顔ぶれは、建築から流通まで多様な企業関係者、芸能・文化系の著名人まで多岐にわたっていたが、学究肌で電車移動中も本を手放さないタイプだった岡本とウマが合うのは研究畑の人物が多かったようだ。
京都帝国大学農学部園芸学教室初代教授、農学部長の菊池秋雄氏(後に名誉教授)や、同教室教授、農学部長の並河 功氏(後に名誉教授)など親交の厚い〝バラ仲間〞は多かったが、特に、岡本のバラ育種におけるパートナー的存在として10年近く岡本のもとで研究を続けたのが九州大学の大学院生であった(後に鹿児島大学名誉教授)有隅 健一氏である。
新進気鋭の若手研究者として、バラの花色を遺伝生化学的に分析し、育種に応用する研究をしていた有隅氏は、枚方に来てほどなく「光るバラ」の作出に成功。これは昭和35年(1960)正月の朝日新聞で紹介され、世間を賑わせたが、通常より花が小さく残念ながら登録までには至らなかった。
しかし、この試みが平成2年(1990)、オレンジの蛍光色に輝く新品種「鶴見’90」の誕生へとつながったのは間違いない。また、有隅氏は京阪園芸にとって念願の農林省(現在の農林水産省)品種登録第一号となった名「ブラックティ」の作出にも大きく関わった人物である。かくしてバラとバラにまつわる人脈に囲まれ、バラの研究に明け暮れる岡本だったが、仕事場のみならず自宅にも1500坪のバラ園「桃山花苑」を設け、自宅内では欧州留学時に持ち帰った膨大なバラ関連の蔵書に囲まれていたというから驚きである。
現在のように簡単にさまざまな情報にアクセスできるわけではなかった当時、海外の先進的な知識が詰まった書物に憧れ、書生として下宿しながら花苑の手入れを手伝う学生は多かった。
そして、その中には後に「ミスター・ローズ」と称された京成バラ園の元所長、鈴木 省三氏の姿もあったという。鈴木氏は岡本が『実際園芸』誌で書いた連載記事を読んでバラ育種への思いをかき立てられたと述懐している。 バラに対する飽くなき探究心と、その志に周囲をどんどん巻き込んで動かすエネルギッシュな存在感。バラに関わる人、そして作出される品種の中に、岡本の意志はどのように受け継がれていったのか。引き続き追いかけてみたい。
ひらかたパークに東洋一のバラ園を築いた「日本におけるバラの神様」岡本勘治郎氏。
京阪園芸と共に日本のバラ業界をけん引した歴史。
北川 陽子氏「受け継がれる技、日本の園芸力」
(ガーデナーズ通信Vol.18 2020年秋冬号)からの転載記事でご紹介致します。
英語では「不可能なもの」「ありえないもの」を青いバラ(Blue Rose)に喩えるという。
そんな言葉から、古来、育種家たちがいかに青バラづくりを追い求め、そして得られずにきたかを窺い知ることができよう。近年、遺伝子組み換え技術で青みがかったバラが誕生してはいるが、つまり遺伝子といういわば「神の領域」にまで踏み込まねばならぬほどに、青バラづくりとは困難な道なのだ。
1955年、岡本勘治郎がひらかたパーク内のバラ研究園での栽培と育種を始めた頃、折しも世界では青バラづくりへの機運が高まっいた。それまで存在しなかったグレーを帯びた薄紫のバラ「グレイパール」が1944年に誕生して以来、これを青バラの元祖として世界中の育種家が「さらなる青」を求めて競争を繰り広げていたという(* 1) 。
こうした動向に、岡本が無関心でいられたはずはない。前号でも触れたバラの花色に関する研究者、九州大学大学(当時)の有隅健一氏とともに、青バラの出現を目指して実験を重ねて いた。
バラの花弁にはそもそも青の色素が存在しないが、咲き進むに従って細胞中にタンニン様の物質が溜まり、これとアントシアニン色素とが結び付いて青黒く変化する現象=ブルーイングが起こる。このブルーイングを追究していけば青バラができるのではないか、と交配を繰り返していく過程で偶然に生まれたのが、深い紅茶色の花弁を持つバラ「ブラックティ」だった。
本来ブルーイングはバラにとっては老化現象であり、特に赤系のバラにおいては好ましくないものとして排除する方向で当時の育種が進んできた。有隅氏は自身の論文において、 ブ ルーイングを「見る者に不快な感じを与えるぐらい混濁した色調を呈する」現象として懐疑的なスタンスながらも「真の青バラに通じる道」の一つとして能性を示唆している(*2)。この若き研究者の着眼点に、おそらく岡本は共感し、強く後押しをしたのだろう。
2人の試行錯誤がたどり着いた先は「真の青バラ」ではなかった。しかし、当時忌み嫌われていたはずのブルーイングしい色と、その名の通り紅茶を思わせる芳香を持つ「美しい誤算」として結実したのだ。発表当時、京都の百貨店で開催したバ ラ展では、ブラックティの花色が珍しいあまり、「なめし革で造られているのか」と手を触れて確かめてみる来場者もいたという(* 3) 。
ブラックティの他にも、岡本の主導のもと京阪園芸において数多くのバラが作出された。本来、バラの生育に適さない日本の気候でもよく育つ、日本のバラを作りたい–そんな思いで日本のバラ育種の黎明期を切り拓いた彼の軌跡そのものといえる品種の数々である。そして、岡本のバラ育種のDNAを継ぐ人材たちが、枚方の地でバラづくりを続けている。
余談ではあるが、世界各地で起きた青バラ育種競争の中で生まれた紫のバラもまた、人気の花色として定着している。紫のバラについては本誌P9(https://keihan-engei.com/images/pdf/2019_vol18.pdf)をご覧 いただきたい。
ひらかたパークに東洋一のバラ園を築いた「日本におけるバラの神様」岡本勘治郎氏。
京阪園芸と共に日本のバラ業界をけん引した歴史。
北川 陽子氏「受け継がれる技、日本の園芸力」
(ガーデナーズ通信Vol.19 2021年春夏号)からの転載記事でご紹介致します。
遊学先の欧州でバラへの造詣を深め、数多くのバラ品種と関連書籍を日本にもたらした〝バラの神様〞岡本勘治郎。彼の指導のもと、1967年からバラの育種に取り組み始めた京阪園芸が、現在に至るまでの約半世紀にわたり世に送り出してきたバラは34品種に及ぶ。
「うちの育種は、言ってみれば〝一子相伝〞のようなもの」と語るのは、人気のローズソムリエとして活躍する一方、バラ育種家としても数々の受賞歴を持つ小山内 健である。
小山内いわく、バラ育種には手間と年月を要するため、代々の育種家はそれぞれ長く現役を務めてきたという。その間に次代を担うべき後輩を見出し、育てる。
「僕がかつて先輩から見よう見まねで教わり、今、後輩に教えている技術は、元をたどれば勘治郎さんに行き着くのでしょうね」
小山内が入社した1989年当時、京阪園芸が管理を担っていたひらかたパークのバラ園は、岡本が監修した当初の姿をとどめていた。すでに造営から30年以上が過ぎていたが、同社のバラ栽培担当者たちは岡本遺愛のバラを大切に育て続けてきたという。同バラ園が2000年に大規模リニューアルを行った後も、その一角に岡本が集めた貴重なオールドローズを植え替え、今も毎年、美しい花を咲かせている。
てっきり、接ぎ木を繰り返すことでバラの命をつないでいるのかと思いきや、そうではないという。「失われたら二度と手に入らない品種もある。できるだけオリジナルの株を枯らさないよう育てるのが、僕らのプライドでもあります」。そう言って微笑む小山内の表情には、ひらかたパークのバラ園で継承されてきた同社の魂を見る思いがした。
さて岡本は、1955年から23年間、京阪園芸の取締役を務め、1978年の初夏、バラが今を盛りと咲き誇る季節に退職を迎えた。岡本の在職中からバラと並ぶもう一つの事業の柱として造園事業を推進してきた同社で、折しもその頃から花と緑で街や生活に潤いをもたらす事業をよりいっそう拡大していく。
そして現在。コロナ・パンデミックにより全世界規模で生活様式の変化を求められる中、自然がもたらす癒やしへのニーズがいまだかつてなく高まっている状況がある。
「花と緑を愛する私たちは、総合造園・園芸会社として快適な生活環境を創造し、社会に貢献します。」
京阪園芸が掲げるこの企業理念は、先人の知恵と技を継承し、柔軟に発展させていく「日本の園芸力」の今日と、未来への可能性を示しているように私は思う。
晩年、自宅に開いたバラ園「桃山花苑」でのバラ作りと、主宰していたバラ雑誌の編集にいそしんだという岡本は、86歳でそのバラに囲まれた生涯の幕を閉じた。若き日に欧州を巡って各地の都市を彩る花々に接し、日本にもその美しさをもたらすことを夢見たであろう岡本も、きっと、同社の今後を楽しみに見守って いるに違いない。
本社
大阪府枚方市伊加賀寿町1-5
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大阪営業所
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枚方公園駅下車、大阪方面へ徒歩約4分
京都方面から
国道1号線(枚方バイパス)をご利用下さい。菊丘交差点左折、ひらかたパーク・枚方公園駅を目指してください。
府道京都守口線をご利用下さい。枚方大橋南詰交差点を左折約500m
大阪方面から
国道1号線(寝屋川バイパス)または府道京都守口線をご利用下さい。枚方大橋南詰交差点を右折約500m
高槻方面から
国道170号線(外環状線)をご利用下さい。枚方大橋南詰交差点を左折約500m
淀川河川事務所発注の枚方下流高水敷維持作業において優良工事等施工者として表彰
第12回 国営越後丘陵公園「国際香りのばら新品種コンクール」にて小山内健 作出の「フィネス」が銀賞受賞
「LIXILエクステリアコンテスト 全国リフォーム部門」銀賞受賞
「大阪・光の饗宴2013 光のアワード」web人気投票で第1位を獲得(中之島公園のイルミネーション施工)
「紀貫之」卿墓所周辺整備工事完遂により感謝状を授与(高知県国府史跡保存会より)
「土木学会デザイン賞 2012 最優秀賞」を受賞(2009年リニューアルされた中之島公園が該当)
武石誠一(取締役)「なにわの名工」受章(橋下大阪府知事より)
フラワーサービス課の社員 小山内健が、テレビ東京系「全国バラの花通選手権」にて見事優勝(翌年連覇)